生い立ち~現在までのロングプロフィール作成事例 坂口様

坂口尚司 (Hisashi Sakaguchi)

職業:システムエンジニア

坂口家の長男として千葉市の本千葉町に生まれる

1980年12月8日、千葉市中央区本千葉町に住む坂口家の長男として生まれました。
サラリーマンだった父は、定年まで物流販売会社に勤めた仕事一筋の人でした。
母は明るく社交的で、当時は祖母の飲食店の手伝いをしていました。

1歳半まで本千葉で暮らしましたが、
その後は父が家を建てたので家族で蘇我へ引っ越しました。
幼少のころは、父の自慢のカセットデッキに物を詰め込んでよく壊したとか…。
自分では覚えていませんが、わりと活発でイタズラっ子だったと周囲から聞かされています。

イジメあり挫折ありの子ども時代

小学生のときの習い事はそろばんと学習塾。
勉強はわりとできたのでクラスでは目立っていた方だと思います。

学級委員や児童会の役員も務めましたが、当時はイジメられることもありました。
ジャイアンみたいな子がいて、仲良く遊んでいるときはいいのですが、
急にひどいことをするときもあり…。

あまりにひどいときは両親に相談しましたが「根性で学校へ行け」と言われるばかり。
当時はそういう時代だったのかもしれません。

中学ではバドミントン部に入部しました。
当時、バスケットボール部やサッカー部に人気が集中していましたが、
僕は「部員が少ない部活に入って確実に試合に出たい」と、
男子が極端に少なかったバドミントン部に決めました。
この頃から少しひねくれている部分を持っていたのかなと(笑)。
人と違ったことがしたいという、アマノジャクなところが出ていたのかもしれません。

中学2年生のときに挫折を経験しました。
先輩の最後の試合となる千葉市予選でベスト8まで残り、
あと1勝すれば県大会へ進めるという大事な場面。

団体戦の試合に出場していた僕は、先輩たちから「これで負けたら終わりだぞ!」と、
大きなプレッシャーをかけられ、
ひどく緊張して普段では考えられないようなミスをしてしまい、予選敗退…。

僕のせいで負けてしまったのですから、ショックで自分を責め続けました。
その上、顧問や周囲からは何のフォローの言葉もなく、ひどく落ち込む日々でした。

この夏休み前の試合がきっかけで僕は部活に出なくなりました。
友だちが声をかけてくれても、夏休み中も部活に出ることはありませんでした。

当然ですが、そのうちに顧問から「辞めろ」と言われました。
そう言われると、すんなり受け入れられないのがアマノジャクたるゆえん(笑)。
「いや、最後までやります!」と言い切ってしまい、結局は卒業まで続けることに。

練習を再開しましたが、
一番伸びるとされる時期に長く休んでいたので、周囲にすっかり抜かれてしまって…。
でも、練習を休んだのも自分の責任なのでそれは仕方のないことでした。

部活を通じてわかったのは、僕は気持ちが入らないと動けないタイプだということ。
大人になってからは
「気持ちが入らなくても、動いていれば気持ちは後からついてくる」と思えるのですが、
それは仕事の上だけで…。
仕事以外はやはり心が優先です。

高校をやめたい 家にもいたくない

中学卒業後、稲毛高校へ入学しました。
高校1年のころは、担任やクラスメイトとの巡り合わせを悪く感じ、
学校がつまらなくて仕方ありませんでした。
担任は自分の高学歴を自慢する先生で、それを聞くたびに嫌な気持ちに…。

また、クラスメイトと反りが合わず、学校をやめたくてやめたくて…。
ずっと一人悩んでいました。

僕は昔から人見知りせず、何でもオープンに話すタイプなので、
同じような人とは上手く付き合えるのですが、 建前だけの人は苦手なんです。
その時のクラスメイトには本音でぶつかって来てくれる人がいないと感じていました。

小学校時代は多少のイジメも受けたので、
それに比べたら高校で孤立していることなんて特に気にはなりませんでした。
昼休みは一人で図書室へ行き、時代小説を読んでいることが多かった高一時代でした。

ある日、自宅にケーブルテレビの工事が入りました。
担当者は自分と同世代。話を聞くと中学卒業後にすぐ就職したそうで…。
働く姿に感心すると同時に「僕も早く家を出て独り立ちしたい」という気持ちが強くなりました。
と言うのは、その頃、学校へも行きたくなく、家にもいたくなかったんです。

実は小学生のころに祖父が脳梗塞で倒れ、亡くなるまで自宅介護が続きました。
その後、祖母の介護も始まり、母は介護に家事にとても忙しく、
父は仕事でほとんど家にいず、家のなかはよい雰囲気とは言えなくて…。

つらかったのは甘えられる場所がなかったこと。

物心ついたときにはもう弟が生まれていて、僕は母に甘えた記憶がありません。
「家庭」というものの良さをどこにも感じ取れなかったのだと思います。

当時はそんな思いもあり「早く家を出たい」と思っていました。

巡り合わせで高校生活が変わった

高校2年でクラス替えをしたら、不思議なことにあっという間に友達ができました。
巡り合わせってあるんだなとつくづく…。

急に学校が楽しくなり生徒会活動も始めました。
高校生活の一番の思い出は3年生で文化祭実行委員をやったこと。
後夜祭ならぬ中夜祭の初開催に向けて、生徒代表として学校側との調整役を任され、
自分の意見が取り入れられる喜びややりがいを感じました。
また、文化祭後の生徒会広報に僕のコメントが総評として掲載されたことも良い思い出です。

大学に7年間在籍

高校卒業後は立正大学文学部へ進みました。
7年間も在籍しましたが、実は途中でアルバイトに一生懸命になり大学に行かなくなってしまって…。

それでも「どうしても大学を出てほしい」という両親の思いから在籍しましたが、
最終的に中退。
両親には7年もお金を使わせてしまい申し訳ないと思っています。

大学ではゆるいサークル活動に所属し、勉強も特に一生懸命したわけでもなく、
ただ、千葉から熊谷キャンパスへ通うことがとても大変だった…
それくらいしか思い出がありません(笑)。

ファーストフード店でのアルバイト経験

少しずつ自分が変わるきっかけとなったのは、飲食店でのアルバイトの経験だと思います。
大学生のころ、近所だからという理由だけでファーストフード店で働き始めました。
混み合う時間帯は大変でしたが、
お客さんから「ありがとう」と言われることが嬉しくて一生懸命に働きました。

当時は大学生でしたがマネージャーまで昇進。
仕事に対しての意識も高くなり大学よりバイトを優先する日々でした。

飲食店には数字という目標がありますが、
自分が入った日はほとんどノルマをクリアしていたことが自慢です。

考えてみれば職場の雰囲気がとても良かったので、それが売り上げにつながったのかもしれません。

スタッフは高校生が多かったので楽しく仕事ができるようにと、なるべくコミュニケーションをとり、
良いところはきちんと褒めて、ダメなところはしっかりと注意することを心がけました。
職場はいつも和やかな雰囲気で、みんな楽しそうに仕事をしていたことを覚えています。

初めてのIT業界へ

大学を辞めた後、お世話になっていたファーストフード店の契約社員として
2006年2月から働くことに決めました。

ですが、その矢先に転機が訪れます。

友人がIT系のベンチャー企業を立ち上げるとのことで、声をかけていただきました。
当時の僕はパソコンを組み立てるくらいはできましたが、
特にIT業界を目指していたわけでもなく知識もありません。
それでも「新しい世界に挑戦してみたい!」と心が動きました。
大手企業の仕事も請け負えるとのことで「これはチャンスだ!」と。

悩んだ結果、2006年4月からのITベンチャー企業の正社員として働くことを決心しました。
契約社員になって、たった2ヶ月で辞めることになったファーストフード店には
今でも本当に申し訳ないことをしたと思っています。

システム障害でアドレナリンが

当時の仕事はシステム障害を監視する業務でした。

24時間体勢で二交代制のシフト。
業務は、システム障害を起こすとメールや画面表示で通知が届き、
それに対処するという内容でした。
初めての職場で率直な感想は「大人と仕事の話を進めるのはとても楽だ」ということ。

以前のバイト先では高校生ばかり相手にしていましたから、会社の都合なんて理解してもらえません。
ですが、ここではシフト調整や引継ぎなど、大人が相手だと何もかもスムーズで「なんて楽なんだろう」とうれしくなりました(笑)。

何も起こらなければ平穏無事なのですが、大きな障害が出れば即座に対処しなければなりません。
僕はトラブルが大きければ大きいほど興奮し、アドレナリンが出るタイプ(笑)。
そして、大きな障害ほどやりがいを感じていました。

この仕事を10年以上続けるなかでSEの技術や知識を身につけました。
また、情報処理の資格を取得するなど、現場で学びながらSEとして成長できたと思っています。
こうして長い期間、同じ仕事に一生懸命になれるのは父親譲りなのかもしれません。

フリーのシステムエンジニアとして

現在はフリーのSEとして働いています。
僕の強みは目の前のことに一生懸命取り組む集中力、また、優先順位を決める決断力、それからサービス業で培ったコミュニケーション力と調整力です。

プログラミングやサーバー構築等の技術力はスペシャリストにはかないませんが、
そうした専門家たちが仕事を円滑に行えるよう調整するマネジメント力には自信があります。

技術者が活躍するには調整役も大事ですし、
マネジメントをするにもITの知識はある程度必要なので、そのための知識は身につけてきました。
周囲に言わせれば、自分のようなタイプはプロジェクトマネージャー等の管理者に向いているそうです。
「坂口くんのような人はIT企業内には少ない」とよく言われます。

こうして自分の強みを書いていますが、実は仕事に関しては自己アピールが苦手で、営業や契約はすべてエージェントに任せています。

好きなことを仕事にしない

IT関連の仕事には特に志があるわけはなく、いい仕事をしていれば収入が上がる業種です。
だから、今、自分を一番高く評価してくれるところで働いています。

世の中には好きなことを仕事にしている方もいますが、
僕の場合、好きなことは儲けなどお金のことを考えず純粋にやりたい。

好きなこと、やりたいことは趣味でやればいい。
生活のためには別の仕事をする、というスタンスです。

千葉在来蕎麦との出会い

僕と言えば千葉在来蕎麦ですが(笑)、出会いは千葉日報のツイートで「千葉在来蕎麦祭り」の存在を知ったことがきっかけでした。
翌年2012年のお祭りで初めて千葉在来を食べ「千葉市にこんなにおいしい蕎麦があるとは!」と、大きな衝撃を受けました。

当時、千葉在来蕎麦は、今ほど知名度が高くなかったのでおいしさに感激すると同時に「これは千葉市の魅力をPRするよい名物になるのでは?」と思ったんです。

実は以前から、僕が生まれ育った千葉市には自慢できる名物がないと感じていました。千葉市が大好きな僕は、この町がより存在感を出すにはどうしたらよいのか、度々、考えることがありました。

蕎麦の栽培に挑戦!

当時は千葉在来を出すお店も少なくて、どこで蕎麦粉が買えるかも知られていなかったし、
それならば、僕自身が栽培し周囲の方に食べてもらうことで、千葉在来蕎麦や千葉市のPR活動になると考え始めました。

なんと、その絶妙なタイミングでよいご縁があり、知人が畑を貸してくれるという、思いがけない展開になりました。

2000坪もある大きな畑で初めての蕎麦の栽培は何もかも大変でした。
真夏に牛糞をまく作業は2時間も体力が持ちません。
自然の力には叶わないと思い知らされるほど想定外のこともたくさん起きますし、
天候によって育ち具合が大きく左右されることも痛感しました。
当たり前ですが、作物はきちんと手入れしないと育ってくれないんです。

蕎麦の香りに感動

それでも最初の年から蕎麦の実を収穫し蕎麦粉を作ることができました。
苦労して育てた蕎麦は格別ですが、それを初めて食べたときよりも、水回しのときの香りに感動しました。
水回しとは最初に蕎麦粉と水を混ぜる作業ですが
「こんないい香りがする蕎麦を自分で育てることができたんだ!」という喜びで一杯でした。

また、前の年のお祭りで初めて千葉在来を食べ、その1年後のお祭りでは自分が提供する側になるとは…。
自分でもこの急展開には驚きです。
そして今は、みなさんが「おいしい」って食べてくれることが何よりも幸せです。

とにかく畑を続けること

最近、僕の周囲では坂口=「蕎麦を作っている人」ということで知られるようになってきましたが、
すべては千葉市の知名度を上げたいために始めたことです。

ですから、僕は畑を大きくする必要もなく、事業にするつもりもなく、ただ作り続ければいいと思っています。

続けることで多くの人が千葉在来蕎麦を知り、千葉市を知るきっかけになるだろうし、
他にも栽培したいという人が出てくるかもしれませんから。

出会いが新しい道へ導いてくれた

蕎麦栽培を通して知り合ったお蕎麦屋さんや畑の仲間など、
畑をやっていなかったら、決して知り合えなかったみなさんとのご縁は僕の財産だと思っています。

それに、これまでの人生を振り返ってみると、
僕の人生の転機にはそれまで築いてきた人間関係が大きく影響していると感じます。

IT業界へ飛び込んだときも、千葉在来蕎麦と出会って畑を始める時もそうでしたが、
みなさんがいつも良いほうへ導いてくれました。
人とのつながりが新しい自分の道を切り開いてくれたことに感謝しています。

まだまだ30代、これからどんな人と出会ってどんな道に進むのか、自分自身も楽しみです。

坂口尚司

(取材・ライティング 真田はる代)

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